追悼 青木厚さん

僕の恩人である、青木さんが先日亡くなりました。

 

青木さんは、僕の古巣である豊田通商のグループ会社で、世界最大級の半導体商社、株式会社ネクスティ エレクトロニクスの代表取締役を今年の3月末に退任、その後はアドバイザーをされていました。

名古屋から電車とバスを乗り継いで2時間かけて葬儀に行ったのですが、
そこで考えた色々なことが、自分の今後に大きく影響を与える予感がし、またいまの自分の考えていることを書き残しておきたいと思い、ブログを書きます。

書き終わって、読んでみると長くなりました。
ですが、全てが僕にとって大切なことだと思いましたので、このまま載せます。長文ご容赦ください。

 

青木さんと出会いと、衝撃のエピソード

 

青木さんは、僕が新卒で会社に入った1990年代、隣の部署(エレクトロニクス関連ビジネス)の先輩でした。僕はペーペー、青木さんは既に重鎮でした。

その頃の青木さんは、超ハードワーカーで、毎日夜中まで仕事をしている人だなぁという印象でした。

当時は、あまり仕事では関わりがなかったのですが、飲み会の挨拶がとにかくオモシロイ人。

部門の人たち40人くらいででカラオケをやったときの話です。

 

青木さんは、イエモンを歌いながら、なぜかみんなの中に入っていきます。

何を始めたのかと、不思議に思って見ていると、青木さんは、周りを見回しながら、自分より先輩の人たちを3人ほど前に連れ出し、その人たちの頭の上で、手をひらひらさせながら「はい皆さん、ご一緒にー」とみんなを巻き込んで・・・

 

「太陽が〜燃えている〜♪」

 

そうです。連れてこられたのは、少し頭髪が寂しめの先輩たち。
あまりの失礼さに、皆があっけに取られ、その後大爆笑。

会社は体育会気質の商社で、先輩に対してこの暴挙。

 

やべーこの人。

 

ぶん殴られても文句言えない気がしますが、愛嬌キャラで、周りからツッコまれるタイプの青木さんだけに、連れてこられた先輩方も怒りきれず、苦笑していました。

思い返すと、炎上しそうな話で、しかもしょうもないエピソードですね。当事者の方、もし万が一読まれていたら、ごめんなさい。
25年以上前の話なので、許してください。

 

とにかく特殊で、強烈な「青木さん」というキャラクター。

自分を飾らず、いつもニコニコ。それが僕にとっての青木さんのイメージでした。

 

デュッセルドルフ支店長時代

 

青木さんは、40代でドイツ駐在となり、そこで支店長になりました。
2004年。青木さんが支店長となったデュッセルドルフ支店に、僕も後を追って駐在となり、そこで僕は青木さんの部下となりました。

 

仕事での、ボスとしての青木さんは、それまでのイメージと全く違う人でした。
とにかく、細かい細かい。うるさいうるさい。

 

いま思えば、面倒見がいい青木さんの素敵な一面でしたが、30代の僕にとっては、「またですか。もうそんな細かいこと言わないでよ」といつも思っていました。

とはいえ、実は青木さんの指摘で、何度も考え直させられ、それに救われたことも幾度とありましたので、うるさいとか思うなと当時の僕に言いたいところです。笑

蛇足ですが、青木さんは目が細くて垂れ目なので、表情がわかりづらい。いつも笑っているように見えるのです。

でも長く付き合うにつれ「あ、青木さん笑ってない。怒ってる!」というのが、僕にもだんだんわかるようになりました。笑

駐在員同士の付き合いは、濃いものでした。

 

正月は、毎年青木さんの家にみんなで集合。
毎日、仕事終わったら青木さんのデスクまで話に行って、それ以外もしょっちゅう飲みに連れて行ってもらい、色々な相談をしたり、愚痴を聞いてもらったりもしていました。

公私共にお世話になった2年間。

 

その最後、青木さんが帰国するタイミングで、僕は自分のいた部署を切り離して別会社化することになりました。
日本とヨーロッパの本社から、事業計画が承認され、後は設立するだけとなったとき、困ったことが起きました。

ERPの不具合や、顧客へのサンプル貸し出しの会計処理がされていないなど、過去の色々な問題が重なり、あるはずの在庫がウン千万円ないということが発覚したのです。

 

僕は真っ青になって、青木さんに相談しました。

 

細かいことは省きますが、その結果、その年の支店の業績を相当悪くしてしまいました。
元々、現場のミスですし、その年で日本に帰る青木さんからすれば迷惑でしかない話だったと思います。

 

青木さんに迷惑かかりすぎるのと、あまりの損失の大きさに僕はビビっていました。

 

そんな僕に対して、青木さんは「全部オレが責任持つから、オマエはとにかく新会社をクリーンな財務でスタートさせなさい」と、ドラスティックな処理を、経理に指示をだして、実行してくれました。

駐在の最終年の業績を汚され、日本の超怖いビックボスやら、ヨーロッパの幹部たちやらに説明したり、めちゃくちゃ怒られたりしながらも、青木さんは僕を守ってくれました。

このときから僕は、いつか青木さんにこの恩を返したいと思うようになりました。

 

カラクル時代

 

青木さんは、2006年に帰国し、エレクトロニクス部門に戻ります。

僕は、その4年後の2010年に帰国し、当時豊田通商が買収したカラクルに出向することになりました。

 

当初、仕事の関係はほとんどありませんでしたが、青木さんはエレクトロニクスの部門長になったタイミングで、カラクルの監査役として僕の前に戻ってきました。

当時のカラクルは赤字から脱出したばかりで、ヨレヨレだったのでした。
青木さんは、3年間、会うたびに「ケイジどうだ〜、困ってることないか〜?オレにできることはないか?」といつも聞いてくれました。相変わらず僕にとって、青木さんは心強い存在でした。

 

その後、青木さんは株式会社ネクスティ エレクトロニクスの社長になり、さらに忙しくなったこともあり、あまり会ったり話したりする機会は少なくなりました。

僕の方といえば、2018年くらいから、カラクルが豊田通商グループから独立するかどうかを親会社である豊田通商と話し始めます。独立するということは、僕自身も豊田通商を退職するということです。

周りの人から理解が得られず、状況は混沌とし、多くの人に批判されまくり、落ち込んでいるとき、青木さんから突然連絡がありました。

 

「ケイジ、メシ行こう」

 

青木さんは、会社を辞めようとしている僕のことを、とても心配してくれていました。

そんなリスクを取るより、なんとか豊田通商の中で、僕のやりたいことができるようにできないか、「こうしたらどうだ?これだったらどうだ?」と一生懸命考えてくれました。

その後、何回か話した後、僕の意思が固いことがわかると、そこから青木さんは社内で色々な人に話してくれて、なんとかうまく物事が進むように手を尽くしてくれました。

(後から「青木がオレのところに、オマエのこと話に来たぞ」と聞いて知りました)

 

僕が青木さんから学んだこと

 

青木さんが3月で株式会社ネクスティ エレクトロニクスを退任したことを機に、また会話をするようになり、そろそろ会いにいきますと話していた矢先の訃報。

 

なんだよ青木さん、また連絡くれるって言ったじゃん。

お茶飲んで、積もる話しようって言ったじゃん。

カラクルの成功を、たのしみに見守ってくれるって言ったじゃん。

 

悲しい。
とても悲しいです。

 

なんでこんなに悲しいのか。受けた恩を全く返せずに、悲しいのか。

それとも、まだまだ仕事してバリバリ世の中に貢献するはずだった、青木さんの早すぎる死への無念なのか。

 

ある先輩と話しました。
彼は、こんな風に青木さんを表現していました。

 

「他人事で済む話なのに、あれ程、親身に色々と力を貸してくれた人はいなかった。執念すら感じた。到底、自分には出来ないことで、凄いことだと思う。」

 

なるほど。
僕が青木さんを尊敬し、敬愛する理由は、きっと青木さんのこのスタンスだったのだと。

 

改めて、人生は、”周りの人とどう関わるか”なのだと、強く思いました。

 

「Color Your Work with Excitement 〜世界のシゴトをたのしくする」というカラクルのビジョンも、ただ単純にビジネスで成功し、世の中にインパクトを与えるだけではダメなんだと思います。

僕が青木さんに対して感じているように、大きな仕事を成し遂げようとする過程の中で、仲間に対してお互いに深く感謝できる関係になるように、必死で努力することこそが重要。

今回の出来事は、生きていく意義、仕事をする意味を改めて深く考える機会を僕に与えてくれました。

 

青木さん、ありがとう。
僕も、青木さんのように、周りに思ってもらえる人になるように頑張ります。
そのうちまたお会いしましょう。
そのときに、またゆっくりお話しできればと思います。
ここ数日、このことを考えてはぼーっとしてしまいましたが、これを書いたことを一区切りにして、また前を向いて進んでいきたいと思います。

 

おすすめ記事