こんにちは。PR担当の原田です。
おかげさまでISAOは2019年10月1日、創業20周年を迎えました。
そして、2019年10月1日は新生ISAOの誕生の日であります。
この20年の間には、会社としての大きな変化はもちろん、2015年には部署や役職、階層をなくした『バリフラットモデル』導入など、組織的にも劇的に変化してきました。
今回は、そんなISAOを創業当時から知るメンバー2名にお話しを伺いました。
対談メンバーは、還暦を越えても尚、バリバリの現役で営業をされている奥野さんとペイメントソリューションプロジェクトリーダー西村さんです。
プロフィール
■奥野 信一郎(1958年生まれ)
1981年 株式会社CSK入社後、1998年『Dreamcast』のISP事業にて技術部門のプロジェクトリーダーとして携わる。2000年株式会社ISAOへ転籍。2010年クラウドマネジドサービスを立ち上げる。2012年からは営業部門に属し、2018年還暦を迎え、現在も営業として日々活動している。
■西村 辰哉(1964年生まれ)
1988年セガ・エンタープライゼス(現在のセガグループ)入社後、1998年『Dreamcast』のISP事業にて運営部門として参加。2000年株式会社ISAOへ転籍。2004年からセガカラ着メロサービスの担当となり2012年のサービス終了まで担当。2013年からインフラ系エンジニアとして課金決済サービスを担当し、現在は課金決済サービスのプロジェクトリーダーを務める。
1.ISAOの20年という歴史を振り返る
―10月1日、ISAOは創業20年を迎えました。そして、また新ISAOの誕生の日でもありますが、この20年間を振り返ってみていかがでしょうか。
西村:
ISAOの創業は1999年なんですけど、ドリームキャストの事業は1998年からで、確か私自身はその年の秋くらいから関わったんですが、もうその時には奥野さんは責任者として数ヶ月前から既に関わっていらしたんですよね?
奥野:
1998年の夏からかな。当時「誰がSEGAにいくか」っていうタイミングがあって、みんながどうする?ってなってる中で「え、俺?」って感じで突然決まって(笑)。
当時は、常駐委託という形でいったのかな。それから3ヶ月後にドリームキャストをリリースするって話になって…そこから歴史が始まったんです。
ドリームキャストのインターネットサービスの運営会社として誕生したISAO
勤務場所は当時、SEGA本社があった大鳥居というところだったんですが、私はプロジェクトリーダーとして携わっていってました。
そこにはドリームキャストのためのネットワークを作るチームとドリームキャストのプログラムを作るチームが集結しました。
私たちが経験している勤務場所としては、その大鳥居がスタートで、六本木、五反田、四谷、そして今の秋葉原なんですけど。
四谷の後に、三茶かな?って思ってたんですけどね。
数字並びで六・五・四って続いてたから(笑)。
西村:
おぉ、それ、意識したことなかったですけど、今言われて気づきました。すごいですね(笑)。
奥野:
六本木には2001年くらいまでいたのかな?2001年~2006年までが五反田時代。2007~2011年が四谷で、震災後から今の秋葉原オフィスだから、今のオフィスが1番長くなりましたね。
西村:
五反田時代が一番長い感覚がありましたけど、今のオフィスが1番長くなったんだなぁ。
奥野:
六本木から五反田の時代はほぼドリームキャスト中心の時代だった。それから会社の場所が移るごとに主軸のプロダクトが変わっていった感じがあるね。
西村:
五反田に移ってからはインターネット事業もやっていたけど、1番稼ぎ頭は着メロでしたよね。
奥野:
そうそう。携帯電話も歴史を追ってすごく変わってきてる時代だね。ドリームキャストが出た当時って、インターネット自体も珍しかったし、携帯電話を持ってる人もすごく少なかったし。持っててもめちゃくちゃ大きいやつね(笑)。
西村:アナログ携帯の時代ですからね。
奥野:
それからiモードのサービスが登場して、その頃はすごい儲かった。でもそれも時代とともに廃れていくわけですよ。
それから四谷時代はきつかったね~。
この時代は色々な事業を売却し始めた時代でした。
親会社が傾き始めて、本当にこの先どうなるんだろうっていう時代だったんですよ。当時、流行った言葉で**「ダッチロール」**って言われていた。どこに向かっているのか分からないそんな状況だった。
西村:
飛行機事故のやつですよね。グルグル回って不安定な飛行。まさにISAOもそんな状態だった。
奥野:
ちなみに西村さんとは今は密な業務のつながりはないんですが、当時のISAOはECサイトとかの事業もやっていて、セールがあるんですよね。サマーセールとか年末年始セールとか。当時はクラウドじゃなかったんで、普通のサーバーを使っていたから、サーバーがダウンしないかどうか確認しなければいけなくて。
私と西村さんは当時、必ず五反田のオフィスにいてサーバーの見届け役だった。
西村:
そうですね。私は当時、自宅と実家と五反田時代のオフィスが15分以内で自転車で行ける距離だったんですよね。だから年末から年始にかけては、自宅―オフィスー実家のサイクルが何年も続いてましたね。
奥野:
ほんとよく2人で年越したよね(笑)。何年くらいしたかな~。
西村:
3,4年は正月年越しオフィスっていう時代を過ごしてましたよね。
奥野:
セールがあったりすると誰かが徹夜しないといけなかった。今みたいなちゃんとしたシフト制とかもなく、とにかく責任者が責任を持って見届けなければならない、そんな時代だったね。
昔の手帳とか見返すと一人で5つくらいのプロジェクトを掛けもってましたから。
西村:
とにかく目の前にある仕事を順番に片付けていきなさい、片づいたらはい、次!みたいな感じでとにかく何でもやっていましたね。
―そんな激動の時代から、変革のタイミングが?
奥野:
それから2010年、豊田通商が親会社になり、オフィスも変わって、ISAOの文化はここで大きく変わりましたね。
まず、勤怠とか。基本行動がとりあえず常識になりましたね。まあ、時代背景もありますが。
西村:
五反田の時代って、私が帰るのが午前2時とかがざらでしたが、自分が帰るときの挨拶って「お先に失礼します」だった。まだその時間に周りに人が居たってことなんですよね。今は少なくとも自分が帰るときには誰もいないですけどね。
**奥村:**いや、西村さん今でも残業多い方ですからね(笑)。
西村:
そうですね…。でもほんとだいぶ少なくなったと感じてはいるんですが…。
奥野:
いや、もっと減らせるよ!比較する当時が非常識な働き方だっただけ。今は当たり前のことを当たり前にしましょう、長期休暇取りましょう。ってすごくクリーンな会社になったと思う。まぁ当時の日本企業はそんな企業ばかりだったとは思いますが。
―西村さんは、「会社に住んでいる」という噂もあるとか(笑)?
西村:
あはは(笑)。それは、五反田の時代のことでしょうね。家も実家もオフィスに近くて遅くなっても直ぐに帰れた環境だったから。まあ今も残業は一番多いと言われているので努力しているところです。
自分自身のタイムマネジメント力の問題でもありますし、もう一つは、今重要な分岐点にきていて、この山を乗り切れば自分にしか知らないことがガクッと減って、みんなが知っている技術で運営できるようになるんで。
奥野:
なるほど、属人性をなくすってことだね。
西村:
そうですね。それができたら別の仕事にチャレンジできる余裕も出来るかなと感じています。
2.還暦を迎えても現役バリバリの営業であり続けたい
―ちなみに奥野さん(1958年生まれ)は去年、還暦を迎えられてISAOの社員みんなからお祝いされていましたよね。
奥野:
60年って長いね(笑)。
私が小学校1年生の時に白黒テレビで当時の東京オリンピックを見てました。また来年、2回目が見れるんですよ。しかも今回の東京オリンピックのチケット当選したんですよ!
西村:
いいですね~!何が当たったんですか?
奥野:
バスケットボールの決勝戦が当たって!息子たちがアマチュアのバスケットをしてたから観戦はすごく好きです。長男と次男と合わせて12年間見てましたからね。
バスケットも昔のスラムダンクの原画時代のルールと、NBAのルールくらいの変わりようがあって。
西村:
それもなかなか時代を感じますね。
奥野:
いやぁ。時代は変わりましたよ。
自分が会社入ったときなんて、パソコンがなかった時代ですからね。みんな紙と鉛筆で仕事してたんだから。
メールもなくて、電話するしかなかった。あとはFAXとコピー機はあったかな。
でも、IT関連でデジタル化の波の中にずーっといたから、リアルタイムに変化を経験してきた。だから60歳になっても違和感なく営業もできるんだと思います。
私は営業としては専門の営業職をやってたことはなかったんです。プロジェクトリーダーとして顧客対応とかはもちろんあったけど。2012年くらいからかな?それからはずっと**「営業の奥野」**ですね。
―還暦を越えてもなおバリバリの現役営業を続けられている原動力はなんでしょう?
奥野:ISAOにいるからでしょうね。
公務員や普通の企業にいたらもうやってなかったかもしれないですね。年齢関係なく働く環境、本人次第で手を挙げればやらせてもらえる環境だからですかね。
―これから挑戦してみたい仕事や、これからどんなキャリアを築いていきたいなどは考えていることはありますか?
奥野:
枠にはハマらないで面白いことはしたいと思いますね。でも現場には居続けたいかなと思います。現場って本当に刺激的だから。新しいパートナーさんと会ったりして、色んな人と関わってっていう環境をこれからも大事にしたいですね。
―お2人にお聞きしたいのですが、ISAOの好きなところはどんなところですか??
奥野:
ISAOっていう名前は愛着がありますね~。名づけの理由はおいといても、20年間、ISAOって言い続けてきたからね。あとは型にはまらない会社であるところ。昔は大変なことだらけだったけど、それでも型にはまらずやってこれたし、ポジティブに変化するところは昔も今も好きなところです。
西村:
こういう言い回しが合ってるか分からないですが、自由なんだけど責任を取らせてくれるところが好きだし幸せに感じますね。
3.ISAOの未来。次なる20年。
―逆に今のISAOの課題だと感じていることはありますか?
奥野:
課題というか、10月から新生ISAOになりましたから。**ISAOの未来ですよね。**これから次の20年を作って20年後にみんながどういうセリフを言ってるか。今のISAOにはグローバル化や、ミッション・ビジョンがちゃんとある会社だからそれを達成していくっていうのが課題でしょうね。我々が過ごした20年とはスタート地点が違うのですごく楽しみですね。
―西村さんはいかがですか?
奥野:
西村さんは、**まずはノー残業でしょっ!!**私は、安全衛生委員ですからね(笑)。
西村:
それはちょっと置いといて…(笑)。今のバリフラットという組織の中でさらにいい仕事をしていくことが課題ですかね。隙間すきま的な細かい仕事とか。あるいは新しいことのチャレンジから安定期に入ったものをどうしていくか、その辺をISAOのいいところを崩さずやっていけるかですね。
個人的には自分も今年で55歳になります。あと5年でいわゆる定年って歳になりますから他人事でない歳になりました。でも、私の父親は工芸家で94歳まで現役だったんで。それを見ているから、あと40年くらいは働くのかなぁと。
奥野:「100歳まで生きる」時代じゃなくて「100歳まで働く」時代か(笑)。
西村:
あくまで無理やりじゃなくですよ。でも、本当に100歳まで働けたらいいなって。またオリンピックが東京で見れるかもしれないですし(笑)。
奥野:
ほんと仕事好きだね。でも、西村さんって趣味カーレースファンなんですよね?
西村:
はい、モータースポーツ観戦が好きですね。毎年、有休を使う唯一の日がカーレースの観戦ですね(笑)。
奥野:
じゃー趣味の時間も増やしつつ頑張ろう!このインタビューで短期的な目標ができたね(笑)。
西村:
そうですね。頑張ります。ありがとうございました。
―お2人とも、ありがとうございました!